今回は、「ネガティブ・ケイパビリティ」についてお話しします。
この言葉を知ったのは何かの本が最初だったのですが、その本がどれだったのか未だに思い出せません。。。
でも、過去の投稿で紹介した「ケアとは何か」(村上靖彦著)を読んでいたら再びこの言葉が出てきました。
そこで、気になって調べていくと「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(帚木蓬生著)という本があることを知り、早速読んでみました。
その内容を今回はみなさんと共有したいなと思います。
ネガティブ・ケイパビリティとは何か?
ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)とは直訳すると「負の能力」という意味になります。
帚木は「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」と説明しています。
帚木自身も、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を海外の論文で偶然発見したそうです。その論文の著者はハーバード大学医学部精神科に所属していたそうですが、どういう人物かについては帚木も知らないとのことです。
また、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を初めて口にしたのはジョン・キーツという詩人だったそうです。
キーツは詩人について以下のように語っていたそうです。
詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。
帚木蓬生,ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力,p6, 朝日新聞出版,2020.
つまり、詩人はアイデンティティを持たないが、それを必死に探していく中で、物事の本質に到達し、その宙吊り状態を支える力のことをネガティブ・ケイパビリティというと帚木は述べています。
最初から少し難しい話をしましたが、このネガティブ・ケイパビリティ。私たち看護師にも求められているなと感じます。
私たち看護師は、日々色々な患者さんと関わるわけですが、相手のことを100%理解するなんてありえません。
「ああでもない、こうでもない」と日々迷いながら関わっていることも多いと思います。
つまり、すごく不確かな中でケアを行なっているということです。
例えば、高齢者(特に認知症の場合)の意思決定支援をイメージしてみてください。正しい答えなんて探してもきっと出てこないでしょう。その状況に耐える力。すぐに決断を急がず、じっくりと耐える力も必要だと思います。(もちろん、決断を急がなくてはならない場合もあるかと思いますが・・・)
その状況に耐えている過程できっと、本質の問題が見えてきて相手を理解する手立てに繋がっていくのだと思います。
マニュアルに慣れた脳
帚木はネガティブ・ケイパビリティが大事だけれども、それを実践するのは容易ではないと述べており、その理由としてヒトの脳には「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからと説明しています。
目の前に、訳の分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ち着かず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象にとりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウツー物が歓迎されるのは、そのためです。
「わかる」ための窮極の形がマニュアル化です。マニュアルがあれば、その場に展開する事象は「分かった」ものとして片付けられ、対処法も定まります。ヒトの脳が悩まなくても住むように、マニュアルは考案されていると言えます。
帚木蓬生,ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力,p8-9,朝日新聞出版,2020.
この解説にすごく納得しました。ハウツー本が最近多いような気がしますよね。以前、認知症のケアの話で私はハウツー本のようなものはあまり読まないと話しましたが、認知症ケア関連の本でも最近ハウツー本が多い気がします。「BPSDへの対処法」のような・・・。
現場では本当に困っていて、今すぐにBPSD(行動・心理症状)を解決したい!という思いからそういう本のニーズが高まっているのかもしれませんね。
しかし、それだけでは解決しないのだと思います。応急処置的な意味しかなさないのではないか?というのが私の考えです。
根本から対処するには、BPSDではなく「その人」そのものに向き合うことだと私は思います。そこには今まで述べたように「不確かさ」が存在しています。すぐにわかるものではない。まさにネガティブ・ケイパビリティが求められています。
マニュアルを否定するつもりはないのですが、あまりにもマニュアルにこだわりすぎるとケアに心がこもらなくなるというリスクが発生することを知っていてほしいなと思います。
治療ではなくトリートメント
最後に、「トリートメント」という言葉をみなさんにも知っていてほしいなと思います。
トリートメントというと髪のトリートメントをイメージするかと思います。それと同じで、「傷んだ傷を治すのではなく、ケアして、それ以上傷まないようにする」ということです。
治療ではなくトリートメントをしてあげればいいのです。傷んだ心を、ちょっとだけでもケアすればいいのです。いつか希望の光が射してくることを願い、患者さんに「めげないように」と声をかけ続ければいいのです。
帚木蓬生,ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力,p103,朝日新聞出版,2020.
これを読んだ時、何だかホッとしたというか、今まで何だか結果ばかり気にしていた自分に気づきました。
プロセスが大事と頭では分かりつつも、どこかで患者さんが劇的に良くなったり、状況が良い方向に行くことをイメージしていました。でも、実際には特に緩和ケアにおいては「治る見込みがない、いわゆる死にゆく患者さんやその家族」を対象とします。
そんな時、私たちにできることって本当に限られていて「共にいる」ことが一番大事だったりするのかなと思います。
「共にいてトリートメントする」それが大事なことなんだなと腑に落ちました。
ふと、ある事例を思い出しました。↓
Aさん、60代男性、末期癌(詳細は忘れてしまいました・・・)。入院時よりせん妄状態が強く、介入依頼がありました。私が訪室した時には、落ち着かれていて入眠していました。これまで在宅で頑張ってみてきたけれど、これ以上は見れないからと入院となり、病院としてはホスピスを調整している段階でした。
ちょうど、妻が付き添っていたので、私は妻へ声をかけ、これまでの頑張りを労いました。すると、妻がゆっくりとこれまでのことを話し始めたのです。
診断されてから、本人は亡くなって後、家族が困らないように手続きをしていたこと、夫婦二人で子どものこれからのことを話し合ったこと、お家で亡くなりたいということ・・・。
その話を聞いたとき、正直私は「じゃあもう少し頑張って在宅で!」という思いが湧いてきました。そこをぐっとこらえ、黙って妻の話を聞き続けました。
一通り話し終えた妻は「今、ホスピスの話を聞いたばかりなんです。明日見学に行きますが見学に行ったら入らないとダメですか?本人はお家がいいって言っていたから・・・」と迷いを見せ始めました。私は事実として「見学=決定ではない」ことだけ伝え、一緒に悩みました。すると奥さんは「見学はとりあえず行ってきます。そして、どうするかもう一度息子たちとも話してみます」と力強く話していました。
結果として、ホスピスに行かれましたが、外泊をし、一旦おうちに帰ることができ、最終的にはホスピスでお亡くなりになったと聞きました。
この場面を振り返ってみると、私は心の中では結果を急ぎたい気持ちが生じつつも、ネガティブ・ケイパビリティを発揮し、トリートメントすることができたのかなと思いました。その結果として、妻はこれまでのことを整理した上で、Aさんの意思も尊重し、方向性を見出すことができたのだと思います。
これからも、一つ一つの事例に丁寧に向き合えるよう「ネガティブ・ケイパビリティ」と「トリートメント」を意識してケアをしていたいと思います。
ではまた明日♡
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