高齢者ケアは「哲学」である?!

高齢者ケア

今回は「高齢者ケア」についてお話しします。

みなさん高齢者というとどんなイメージですか?

ある調査では高齢者とは「心身が衰え、健康面での不安が大きい」「収入が少なく、経済的な不安が大きい」というネガティブなイメージがある一方で、「経験や知恵が豊かである」「時間にしばられず、好きなことに取り組める」といったポジティブなイメージもあるようです。

私は高齢者に対して「未知の世界を生きている人」というイメージを持っています。

私がまだ知らない、知ることのできない世界(時間)を生きている存在ですよね。

そこが小児看護や成人看護とは違う部分なんだろうなと思います。

では、なぜ私が「高齢者ケアは哲学である」と考えるのかについてお話ししていきます。

老人とは死を前にして、生の意味を問う存在

この言葉は「老人ケアの社会学」(木下康仁著)に書かれていた言葉です。

著者はまた下記のように述べています。

死を前にして、老人たちは現代史の生き証人として自らの一生を振り返り、その意味を問うているのである。

木下康仁,老人ケアの社会学,p13,医学書院,1989.

「人生の意味を問うてる」ことそのものが哲学的ですよね。

人の命には限りがある、これは誰もが知っている事実ですが、私たちはなかなか普段は意識していないですよね。

でも、少し次元が違うかもしれませんが、私は30代後半から「健康」に対して意識するようになりました。

20代の頃には自分が病気になることなんて考えてもいなかったのですが、30代に入り次々と起こる不調の嵐。

病気という事実に直面して初めて「健康」を意識するようになりました。

高齢者の場合、ほとんどの人がなんらかの不調、病気を抱えています。そして歳を重ねれば重ねるほどに「死」というものが身近に感じるのだと思います。

私の祖母は96歳で亡くなりましたが、82歳の頃から「おばぁはもうすぐ死ぬはずよ。おばぁのお母さんは85歳で死んだから。」と話していました。その心境って私達には理解しがたいですよね。

自分が死ぬかもと思ってから14年後に亡くなったわけですが、この間どのような心境でいたのか今は知るすべもありません。

もっと耳を傾けてあげればよかったと反省しています。

そんな高齢者のケアをするには、私たちも哲学的視点で高齢者を捉えないといけないのだと思います。

そのことについては井部俊子著の「看護のアジェンダ」という本にも書かれていました。

高齢者のお世話は深奥であり、哲学的アプローチを必要とする。

井部俊子著,看護のアジェンダ,p39,医学書院,2016.

哲学的アプローチとは

では哲学的アプローチとはどのようなことでしょうか。

哲学者である榊原は看護学ケアにおける現象学アプローチについて以下の2つの系統があると述べています。(※ここでは現象学は、哲学と捉えてください)

  1. 患者の病気体験ないし、その意味をその人が体験しているがままにありのままに理解し認識しようとするために現象学的還元の遂行や現象学的態度を求めるもの
  2. 病気を体験している患者やその家族、そして彼らにケアという仕方で関わる看護師の在り方を理解し解釈するためにそもそも人間という存在者がどのような在り方をしているのかについて現象学的に知見を求めるもの

簡単にいうと、1.その人の病いの体験と意味を理解するために、「なぜ、どのようにして、そう感じているのか」という視点で捉えるということです。また、2.患者や家族だけではなく、私たち看護師自身についても、「人間はどのような存在であるのか」「人間はなんのために存在しているのか」と根本的なことから考え、その上で「看護はどうあるべきか」と考えるということです。

少し難しく感じますが、「病いの体験」については以前お話したことと結びつきますね。(→過去記事

単に「疾患」という医学的な見方をするのではなく、患者がその疾患についてどのように感じているのか、体験しているのかという「病い」として捉えるという視点です。

看護を哲学(現象学)的な視点から考えるという点では、ベナー/ルーベルの「現象学的人間論と看護」という本があるようです。

興味が湧いた方はぜひ、読んでみてください。私もまだ読んだことはないので、今後勉強してみようと思います。

参考論文:榊原哲也,看護ケア理論における現象学的アプローチ その概観と批判的コメント

死に至る病にある人に対する看護師としての姿勢

先ほどお話したように、私たちが関わる高齢者は何らかの不調や病気を抱えており、中には死が近い人もいます。

そんなとき、哲学的な姿勢を持って私たちは関わるわけですが、具体的にはどうすればいいのでしょうか?

ハイデガーは「人は、自分の死を覚悟することによって、本来の自分に直面させられる」と述べています。

死を意識することで生きている今がすごくかけがいのない時間となる。

看護学生の哲学入門ー人間理解のためにー」の著者(内藤と伊藤)は、下記のように述べています。

死につながりうるような病の看護は、患者の人間全体が顕になる場である。普通の人間関係では、一般的に言って、各人の人生の一部だけがかかわるのに対し、ここでは患者の人間全体が顕になるのである。看護の場が本質的にそのようなものであるとすれば、患者と看護者との間に対等な付き合いが成立するためには、看護者の側にも自分の人生に対する厳しい姿勢が、おのずから要求されることとなる。看護は看護者の生き方が問われる場でもある。

内藤純郎,伊藤泰雄,看護学生の哲学入門ー人間理解のためにー,p212,学習研究社,1990.

つまり、私たちと死を目の前にした患者さんとの間には、理解し得ないものがあることは仕方のないことであるが、対等な立場になるためにも、看護する私たちも自分の人生に責任を持ってしっかりと生きなくてはならないということでしょうか。

私たちは今、この瞬間の「生を互いに支え合うことで豊かなものとなることができる」とも著者らは述べています。

つまり、看護とは「今、この瞬間を大切にし共にいる」ということが大切ということだと思います。

「共にいる」ということについては過去にもお話しました。(→過去記事

今回は何だかすごく難しいお話でした。

私もまだ自分の中で咀嚼できていない部分もあり、うまく伝えることができていないかもしれません。

哲学はすごく興味があるのですが、なかなか難しくてがっつり入り込んで勉強するのを拒んでいる自分がいます(笑)

でも、今日お話したように、「高齢者ケアは哲学」なので今以上に勉強を頑張っていきたいと思います。

ではまた明日♡

今回参考にした本↓

コメント

  1. みゆうき より:

    はじめまして。とても学び深く、共感したり反省したりしながら拝読させていただいております。高齢化社会になり、
    不治の病になる方が増え、そして医療の発展で様々な薬剤が開発され。。。
    病気だけをみれば色んな治療バリューが提示でき、いい事だろうと思うのですが。本日から治療開始となった方は90代前半の方。シェアードディシジョンメイキングできていただろうか、インフォームドコンセントになってはいなかっただろうか。病気に罹患しなくても、終焉が近い可能性の方に、治療の提供となると。とてもとても考えてしまいます。
    その人らしく、いていただけるよう、サポートを誓った1日でした。
    頑張ります!いつもありがとうございます!

    • みゆうき より:

      意思決定のモデルが違いました。いやはや、お恥ずかしい事です。パターナリズムモデル、シェアードディシジョンモデル、インフォームドディシジョンモデル、と書き記したかったです。とほほ。
      頑張りまーす!

      • hanako より:

        みゆうき様

        コメントありがとうございます。
        高齢者の意思決定・・・難しい問題ですよね。
        インフォームド・ディシジョン・モデルどころか、パターナリズム・モデルに偏っていることもあると感じています。
        患者の物語を大事にしたシェアード・ディシジョン・メイキングが理想ですよね。
        ただ、この問題は高齢者側にもあるんですよね。
        「先生にお任せします」というパターン、まだまだありますよね。
        ここにストップをかけて、一度立ち止まり、ゆっくり意思決定に関わるのはやはり看護師の役割が大きいと思います。
        結論がどうであれ、このプロセスを大事にしたいですよね。
        お互い日々悩みながら頑張りましょう!!

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